海金剛物語西伊豆の海からそびえたつ「海金剛」。地元の人に名の由来を尋ねたが、わからなかった。 記録に残る初登攀は、1992年11月。同人サヘル・雲表倶楽部の船尾修と間野静雄によるものだった。海金剛のひとつ東側の入り江にそびえたつ赤岩を、当時船尾たちは遊覧船に乗り見物に来ていた。一目見ればこれが赤岩だとわかるような、赤い色をしたボロボロの岩壁であり、圧倒的な迫力がある。まっとうな考えの持ち主ならばこんなところを登ろうとは思いもつかないが、クライマーというのは、ときどきどこかでリミッターを切る。船尾たちの先輩である藤原雅一は、1985年に赤岩を初登攀していた。遊覧船は、凝灰岩の洞窟など、伊豆半島が海底火山だったころの痕跡がダイナミックになって表れているさまを目当てにくる観光客向けのものだ。そんななか、どこに壁の弱点があるのか、岩は安定しているかなど考えながら岩壁を見つめるふたりは、船のなかではかなり浮いていたはずだ。 赤岩には可能性は見いだせなかったが、船が千貫門にかかるころ、なにやら硬そうな岩壁が目に入ったのだ。それが海金剛だった。翌週、とにかく近くまで行ってみようということになり、ふたりは薮を漕いで岩壁に近づいた。そして、弱点をつきながら登った。草付きや浮石がいっぱいあって、いま思い出しても怖かったという。そのため思い切りの悪いクライミングしかできなかったけれど、それでも、アメリカンエイドも交えながら下からラインを引くことができた。ルート名はスペイン語で「バガブンド(Vagabund)」。放浪者という意味だ。しかし、この岩場の発見は船尾たちではないこともわかった。なぜならば終了点近くに、残置ハーケンがあったからだ。記録は残されておらず、いつ誰が打ったものかわかっていない。 その後、雲表倶楽部の面々をはじめとするクライマー達がいくつものルートを開拓した。90年代末からはフリーの波がやってきて、既成ルートのフリー化も行なわれた。 今回、花谷泰広と上田幸雄が登った「スーパーレイン」(7P 5.10a 1999年初登、真達慶次郎、鴨下賢一)は、正面壁の真ん中をつらぬくクラックをたどったものであり、1〜2P目が「バガブンド」にあたる。撮影カメラは2台。クライマーを間近にねらうオンスロープからと、まさに船尾たちが船から海金剛に目を付けたように、シーカヤックで沖に出て撮影したものだ。 海金剛のクライミングシーズンは、秋から春にかけて。私たちが訪れた1月であれば、西高東低の気圧配置が緩み始めた頃か、移動性高気圧が日本列島をおおうときがよい。おだやかな陽気になる。しかしそれでも、西からの吹き込みが残り、岩から海を見下ろすと白波が立っているかもしれない。ときにはクライマー達にも、風が吹き寄せる。うまくクラックシステムが構築され、ぐいぐいと登りつめていき、やがて見下ろすと、青々とした大海原が広がっている。西には海をはさんで、雪を載せた富士山と南アルプスの山並みが臨める、気持ちのよいロケーションだ。1931年に日本の最低気温である−41.5℃を北海道・美深町で記録したこの季節、水沢腹く堅しころ、頬に凍傷の跡を残したクライマーたちは、いつもの雪山を抜け出してきて、ちょっぴり開放的なクライミングをする。 (文・柏 澄子) |
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