滝谷とは蒲田川右俣谷の支沢のことであり、大切戸尾根と涸沢岳西尾根に挟まれたところに位置している。ここを初登攀した者のひとりである藤木九三が、「岳の誘惑」という文章のなかに「滝谷」の言葉を用いたものが、登攀対象である岩場「滝谷」の名の由来だ。3000m級の穂高主稜線から、飛騨側に切れ落ちていく岩尾根と岩壁からなっており、ちょうど北穂高岳西面にあたる。北穂高岳北峰に突き上げる第一尾根から順に第五尾根までのナンバー尾根のほか、クラック尾根、ドーム中央稜などがあり、その荒々しい尾根をそぎ落とすように、AからFまでのルンゼが切れ込んでいる。
滝谷の登攀史の幕開けは、1925年8月のことだ。藤木らのパーティと早稲田大学山岳部のパーティが同時期に登り始めた。藤木たちは雄滝からA沢を詰めて大キレットへ出た。一方早大は、雄滝からD沢を登り涸沢のコルに到達した。ちょうど大きく二手に分かれた形になった。以後およそ7年間のうちに主要な尾根が初登され、1932年には早大が、第二尾根と第三尾根の積雪期初登攀に成功した。1956年の日本人によるマナスル初登頂以降の登山ブームも追い風となり、50年代からは社会人山岳会もここ滝谷にやってきて、多くのルートを開拓した。80年代には、人工登攀されていたルートのフリー化も進んだ。
また、こういった登攀史を語るうえで欠かせないのは、北穂高小屋の存在である。先代の主人である故小山義治は、1948年に材をあげ、北峰直下のへばりつくような位置に、北穂高小屋を建てた。山小屋を建てた動機は、いちに滝谷を攀じ登りたかったからである。またここに山小屋があれば事故にあった登攀者たちのうちの幾人かの命を救えるとも考えた。小山自身も足しげく滝谷を登り、そのなかには初登攀もあると言われているが、発表がなかったため、詳細は知られていない。
ところで、あまりの荒々しい様相の滝谷を、「鳥も通わぬ滝谷」と表現したのは、上條嘉門次だった。嘉門次は、近代登山黎明期に活躍した猟師であり山案内人。滝谷初登攀よりも時をさかのぼり、1909年に大キレットを初縦走したとき、滝谷をこう呼んだと言われている。以来「鳥も通わぬ」は、滝谷の枕ことばとなっている。もともともろい岩質であることに加え、度重なる地震では崩壊したルートもある。夏のアプローチは、稜線からガレた陰鬱なルンゼ下っていくため、落石のリスク回避やガレ場で素早く的確な行動が要求され、一筋縄ではいかない。そのような影響もあるのか、近年登られるルートはごく限られてきた。
しかしそれでも滝谷が、日本の登攀史の主たる舞台であることは変わりなく、また独特の雰囲気とアルパイン的景観はほかにはない。いまでも登攀者たちの魂を魅了してやまない。最近では、積雪期にワンデイでの登攀を目指すクライマー達も目立ってきている。 (柏 澄子)